×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


リレーエッセイ 河野茂樹 第33回
サロン中央エピソードU
河野茂樹






皆さん、ご無沙汰しております。
石井名人からご使命を頂きましたので、僭越ながら「エピソードU」を書かせて頂きます。

【衝撃の出会い】
あれは忘れたくても思い出せない、ちょうど4分の1世紀前の春のことでした。 当時小学校6年だった私は将棋に目覚め、小池さんの「貢川将棋サロン」に毎日通っていました。そこで衝撃的な二人の男との出会いがあったのです。この出会いは、明らかにその後の私の人生を変えました。

【天才美少年】
当時、山梨県将棋界には神童の名を欲しいままにしていた一人の紅顔の美少年がいました。
彼は、中学選手権全国大会準優勝をはじめ将棋の実力がもちろんまず際立っていましたが、その大人びた物腰と気風の良さで周囲を魅了し続けました。まさにカリスマ的存在と言うべきで、私にとっては雲の上の存在でもありました。
そう、彼の名こそ若林幹事長、その人なのです。

【謎の高校生】
若さんが神童なら、こちらは怪童。若さんが紅顔の美少年なら、こちらは睾○の・・・。
まず、圧倒的な存在感でした。アフロのようなパーマできめ、牛乳瓶の底のようなメガネで気取り、学ランのままラッタッタ(今はなきスクーター)で颯爽と登場し、若きエグゼクティブのごとくエッグマックマフィンを頬張る。この浮世離れした風情が周囲を震撼させ続けました。私は来たるべき大人の世界の怖さを漠然と予感させられたものでした。
この恐るべき一人の男こそ、そう、我らが田中御大、その人なのです。

【昔の山梨棋界】
当時の県将棋界はある種の封建社会で、故秋山先生を中心とした一大勢力でした。封建的というと否定的な響きがありますが、大山時代がそうであったように、ある世界のある時代にとっては成長のための必要悪みたいなものです。またそうした社会の中にあってこそ、本当の自由の素晴らしさを感じられるのかもしれません。まあいずれにしても、当時の県棋界は良かれ悪かれ物言えぬ雰囲気ではありました。 そうした雰囲気の中、若さんは押しも押されぬ主流派、いわば棋界のプリンスでした。若くして当時から彼の人望は厚く、秋山先生をはじめ多くの長老たちからも可愛がられていたように思います。
ところが、この封建社会を善しとせず、棋界にリベラルの風を吹き込もうと、全身全霊で立ち向ったのが田中御大でした。

【レベレーション・レボルーション】
言うまでもなく、長老の方達がいなかったら我々の現在がないわけで、それは今も昔も同じだと思います。しかしその頃というのは、国の経済は成長を続け、生活文化は豊かになり、自由主義の思想のもと全てが世界標準に生まれ変わろうという時。今日のグローバル一元化時代の夜明け前でした。
そんな時代の中で、我々の自由に対する欲求というのは、脱皮に蠢く蝉のごとく次第に高まってきたのです。それでも、普通の人に革命は起こせません。出来るのは、卓越したリーダーシップを持った限られた人間だけです。そのまま行けば、すんなりとリーダーは若さんということで平和だったのかもしれません。しかしその時の彼はもう、我々とは違う世界に行ってしまった。となると、残るは・・・。
当時の田中御大の姿を思い浮かべると、ゴッドファザーUにおける若き日のビトー・コルレオーネがオーバーラップします。お世辞を言うわけではありませんが、ちなみに顔もデ・ニーロそっくりでした。組織に革命を起こすべく、虎視眈々とその時を水面下で狙っていたように感じます。またその息吹は我々の欲求そのものでもありました。

【ドン暗殺】
若さんが奨励会へと旅立って行った後、我々当時の若手は次なる求心力を求めていました。その若さんにしても秋山先生にしても、リーダーの要件を見ると、やはり将棋が強いことが挙げられます。御大はその点で申し分のない実績を誇っていました。高校選手権3連覇、です。思えば、当時の県学生棋界のレベルは超ハイレベルでした。古谷君も井上君も、この時代に生まれてなかった幸せを感じるべきです。
そして、その選手権大会で事件は起きました。偉大なる秋山先生に向かって、ルールに関して御大が盾突いたのです。私は密かに興奮しました。時代はここで変わりました。
「田中君は破門!」、「河野君は田中君とは遊ばないように!」などと、私は先生から勧告を受けましたが、御大のその男気に惚れた私は、「この人に一生付いて行くゾ」と心に誓いました。

【別れ】
「河野君は田中君とまだ遊んでるのかね?、・・・彼は破門されたのだから、もう遊んではいけません」などと、いつも私に優しくしてくださった秋山先生が亡くなったのは、それから間もなくのことでした。
やがて私も次第に将棋を指さなくなり、若さんや田中さんともめっきり会わなくなってしまいました。よくよく考えてみると、私が将棋に打ち込んだのは後にも先にもその2〜3年間だけだったのですね。せっかく手に入れた自由も、それを享受する時が来るのはその20年近く後だったということですね。
それでも、たとえ将棋から離れても、私の若さんに対する尊敬の念は消えませんでした。東京の下宿先でラーメンを作ってもらったあの味は今でも忘れられません。
一方、田中さんのことを思い出すことは・・・、正直あまりありませんでした。
・・・と、こう書くと、一体私がここまで長文を書いて果たして何を言いたいのか、、、という感じですが、まあ最後まで聞いてやって下さいね。
とは言うものの、「この人に一生付いて行くゾ」などと思ったのは一体どういうことか、まったく当時の自分の気持ちに問うてやりたいもんです。人生の深さと難しさを、田中さんから教わったということでしょうか。(とフォローしてみる)

【再開】
我々3人が山梨を離れバラバラになってから10数年、私は名実ともにオッチャンとなり、将棋を忘れ仕事と生活に追われ、もうA級が誰かも全く知らないような状態になっていました。そんなある日のこと、ヒョンなことから若さんと再開を果たしたのです。感激でした。・・・と同時にですが、「あの美少年ぶりはいずこに・・・」と軽くショックを受けたものでした。いや、それでもやはり感激でしたね。
その際若さんはまたショッキングなことを言いました。なんと、あの田中さんが甲府にいる、というのです。「飲み屋で、向こうもチラチラこっちの方を見てるんだよな。で、声かけて話したらさ、全然昔と変わってないんでやんの。で、おまえのこと話したらさ、『お〜、ごうのがぁ〜、じゃあごんど一緒にやるがぁ〜』って言ってたゾ」とのことでした。ああ、田中さん恐るべし。多くの大人達を震撼させた昔のあの姿が脳裏をよぎり、私は慄きました。

【そしてこの10年】
何しろ田中さんの姿を見て驚きました。サッパリ系&アソビニン系&バブル系&・・・に変身を遂げていたのです。正直、カッコイイ大人になったなぁ、、、と思いました。やっぱり偉大なる我らがリーダー、健在だったのです。そう、皆さんご存知の今の姿ということですね。
その感激の再開から、今気がつくと早くも10年が過ぎました。お二人のご活躍は、これまたまさに皆さんのご存知の通りです。私はといえば、相変わらずウダツのあがらぬ成長なき毎日です。しかし、それでもこうしてここまでこれたのは、ひとえに若さんと田中さん二人のおかげと、本当に感謝しています。
そしていつも感じるのですが、田中さんに対する思い入れは、若さんと私はきっと同じものではないかと。つまり、思春期の多感な時期に人生を教えてもらったことに対してです。我々にとって、永遠のアニキって感じじゃないかと。
「河野、人の幸せって何だと思う?」、かつて田中さんが私に問いました。自答してくれた彼のそのさりげなさと深さにシビレたことがあります。「幸せってのはな、『自分で自分のことを幸せって思うこと』だよ」。

【これからの山梨県棋界への期待】
私などが偉そうに評論する資格など全くないのですが、かつて県棋界がこれほどまでに盛り上がったことはないですね。ベテランと若手がうまく絡み合い、他県との交流があったりと、その自由な雰囲気には隔世の感がありますね。本当に素晴らしいことだと思います。何よりもここの存在、ユウタンの尽力と若さんの盛り上げが大きいのではないでしょうか。
ただ私が最後に願うのは、田中さんが多くのものと闘い風穴を開けた歴史、これがあったことを皆さん忘れないで欲しい、ということです。
偉大なる田中さん、マンセー。ありがとうございました。合掌。   ・・・あ、違うか



【付録・サロ中支部会員の常識:最低でも押さえておいてほしい事項】

5、田中先生飛車角連続ただ捨て事件
数年前の支部団体戦の決勝で、先生は中盤飛車角得の大優勢を築いた。ところが、終盤見る見る内に形勢悪化。やがて駒得どころか角損になり、最後にはうっかり大手飛車をかけられた。気がつけば自分の持っていた4枚の大駒は全て相手の駒となってしまった、という寒い事件。会場内にブリザードのように響き渡った「アイター!」の声を、今でも忘れられない人が多い。

6、A野プロ6段 撃破事件
上記のごとく、ある意味終盤の魔術師、いや奇術師ともいえる田中先生の寄せだが、完勝。かつて怪童の名で鳴らし、高校チャンプとして一世を風靡した先生の面目躍如たるところ。いくらプロとはいえ、あの先生の偉大なアナグマを封じるのは容易ではないということか。


第34回   「今西 修」   へ