リレーエッセイ 若林 功 第21回
若林 功






特別なネタはあまりないので、とりあえず自身の将棋半生(まだ1/3くらい?)の振り返りをします。。。


第1章▲小学生の記憶〜痛みの伝わる惨敗〜実は人生最大のチャンスだったことに気づく△

 鮮明に覚えているのが、小学生名人戦のvs羽生戦(当時は地区予選もなかった)。羽生さんは中飛車。私は速攻派だったのに、気圧されたのか▲4六金戦法を採らず、左美濃。相銀冠に進むが、△4五歩△4四銀の形から、5〜6筋を絡めて攻めこまれる。▲9八玉、5八飛と耐えるも、△6九銀の割り打ちまで食らって、一方的に寄り切られた。  小学生のその当時は羽生さんの名前も知らなかった。高校生になって、知り合いから「あのとき羽生さんと指したんだよね?」と言われて初めて「え゛っ?!」となった。(勝ち上がるとこんなにカメラマンが増えるのか...と思っていたのだが、皆、羽生さん目当てだったのだ!)


第2章▲アマ棋界に対する無知〜後手番でも筋違い角ONLY〜今より10kg軽かった秘密を思い出す△

 正直に言うと、翔風館に入るまで、大学将棋にリーグ戦があることも、学生将棋がここまで盛んなことも知らなかった!高校も大学も将棋部がなく、かといって自分で部をつくる根性もなく、ずるずると将棋と疎遠になっていった。塚田スペシャル以降の定跡からオイテケボリをくらった私は、いつしか「筋違い角棒銀」しか指せない体になっていた。  そして気がついたら、大学で始めたフェンシングが第一の趣味に。(私にとっての「関東大学リーグ」はフェンシングだった。)社会人になっても週末は大学で練習を続け、ダイエットとは無縁なスポーツマンだったのだ、そう言えば。


第3章▲偶然の再会〜加速度のついた変化〜気がついたときには泥沼から抜けられなくなっている△

 20代後半のある日、駅のキオスクで珍しいものを発見。「最近は将棋の新聞も出ているのか?!」と驚いて手にとったのが、週刊将棋だった(いつのまにか空前の将棋ブームが巻き起こったのかと思ったが、そうでもなかった)。そこでネット将棋の広告を見つけてアクセス。ちょうど仕事が辛かった時期だったこともあり、危険なほどにはまってしまった。(本当にドロップアウト直前まで行った。)
 1997年、東京から埼玉に転勤。いきなり南浦和の道場でオゼキ関やマサカズ坊ちゃんに遭遇したのも何かの縁か。県の大会に出始めたとき(そのときはN岡さん相手に玉粋)、館長に声をかけてもらって翔風館入り。以下、一気に坂道を転がり落ちる(?!)かのように、将棋ピープル化。学生将棋を知らなかった私にとっては、団体戦も初体験だったが、何よりこんなにたくさんの将棋仲間に囲まれていること自体が、本当に初めての、貴重な体験となっている。


次は、将棋を本当に楽しそうに指す男、塩っちゃんです。





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