リレーエッセイ 松本 誠 第13回
『パラダイムシフト』
松本 誠







(1)混沌
 学生時代、工学部将棋学科と揶揄されるほど将棋にのめり込んだ私は、一旦その棋力のピークを迎える。それなりに努力して、大学将棋では悔いの残らない成績を残せた。そして97年4月、無事就職し、社会人としての生活が始まった。親元を離れての寮生活。新しい仕事の勉強。環境も生活のリズムも一変した。

 はじめは小さな変化だった。学生時代と同じ気持ちで将棋を指す。2手以上離して勝つつもりがきわどく一手勝ち。寄せありとにらんで詰ましにいったが、きわどく詰まない。泥仕合の終盤になり、勝ちパターンのつもりが負け。何かがおかしい。いやおかしいわけではない。何度か繰り返すうちに気がつく。自分が弱くなっていることに。

 またこの当時、− 今となっては信じられないことだが − アマはプロにはかなわないという雰囲気が色濃く存在した。たとえば近代将棋誌のアマプロ戦では、プロ30連勝ということがあった。それを裏付けるかのように元奨励会有段者が圧倒的強さを発揮してアマチュア界で活躍する。

 そして将棋の上達は20歳まででそれ以降は伸びないという説もあり、今後、自分がエネルギーを費やしてアマチュアの強豪を目指すことにどれほどの価値があるのか、という疑念が頭をもたげていた。いろいろ重なり心は将棋から少しずつ離れていく。そして、ついには駒を全く握らなくなる・・はずだった。

(2)転機
 しかしここで転機となる出来事が起こる。アマ竜王戦で遠藤正樹氏がアマプロ戦で2勝をあげたのだ。早指しならいざ知らず、5時間の持ち時間での将棋で、翌年と合わせ6局指して4勝2敗。相手も新4段二人を含み、終盤一分将棋で競り勝つなどプロと遜色のない内容と結果だった。
遠藤氏には奨励会での修行経験はなく、18歳当時は道場4段クラスだったとのこと。プロ棋士やアマチュアトップの通例に照らせばかなりの晩学である。

 私の心中でパラダイムシフト(観念転換)が起こった。
・絶対と思ったプロとて絶対ではない。
・将棋の上達に限界はない。
・アマチュア強豪を目指すことは無価値ではない。

なにより、距離を置くことであらためて気がついた。
・やはり将棋は面白い。
なぜこんな簡単なことを忘れるのか。
いったいどうして自分は真剣に打ち込まないのか。


(3)再燃
 97年12月。
気がつくと私はもう一度上達を目指していた。目標は2000年12月、(30歳までに)タイトルを取ること。といっても10代の少年ならいざ知らず、20代後半の自分には方法論の失敗は許されない。計画を入念に練った。

 当時私は成功哲学関連の本を愛読していた。
ナポレオン・ヒル、ヨゼフ・マーフィー、ノーマン・V・ピールなど、ニューソートと呼ばれるこれらの哲学やノウハウは私を大いに勇気付けた。
そのノウハウの一例として「目標の細分化」がある。
例えば「棋力を角一枚引き上げる」という目標を考える。
正直に考えるとこれは大変な問題で、達成は不可能に近いとさえ思える。
しかし、ここで目標の細分化を行うとどうなるか。例えば
・序盤の知識、感覚を磨く
・得意戦型を持つ
・その戦型に関連する棋譜を研究して知見を深める
・詰将棋をといて終盤の読みの精度を高める
勿論これらとて簡単ではないが、一つ一つは必ずしも無理なことではない。そしてこれらを積み重ねることで最終的な目標に到達することは十分できそうに見える。動機付けを工夫することで消え細りそうな意欲をつないでいった。

 当時の勉強方法は研究会と詰将棋、棋譜並べだった。
私は西日暮里S研に参加させていただいたが、この時のメンバーは泉、窪田プロに奨励会の千葉、飯島、宮田、アマチュアトップの鈴木、古賀、遠藤各氏・・と最高に充実していた。今振り返っても、自分はつくづく幸運だったと思う。

 また詰将棋も真剣に取り組んだ。2000年12月までに将棋無双100題を(不完全作を除いて)全て解くという目標を立てたが、これは100番「大迷路」を除いて達成した。緩やかではあったが将棋の土台がしっかりしていく感覚を自覚できた。

(4)熟成
 このような努力もあり奨励会員と伍して戦えたがアマチュア大会では今ひとつだった。県代表どころか、なかなか遠藤、古賀、長岡各氏に当たるまで行かない。
棋士や奨励会の実力者と五分に戦うスタイルとアマチュアで9割勝つスタイルは必ずしも一致しないのだが、これに気づくのはずいぶん後のことだった。
ただし、将棋が勝てなくとも不思議とあせりはなかった。古賀さんや遠藤さん、樋田さんなど、西日暮里道場に通う皆さんには本当に親切にして頂き、将棋マシーンのようだった私も諸先輩方との交流で少しずつ人間性を取り戻したのだった。そしていつしか将棋だけ強くても意味がないと考えるようになった。

 2000年春、もう一つの転機が訪れる。ネット将棋だ。それまでいくらか実戦不足だったのが、一転して実戦過多となった。闇雲に指しているうちに棋譜並べで蓄えた断片的な知識と知識が有機的に絡みだした。爆発の日は近い。確かな手ごたえを感じた。

(5)決戦
 2000年12月。アマ王将戦の北関東代表になることができた。
1970年12月生まれの私にとって20代最後の全国大会を迎える。
悔いの残さない将棋を指す。前夜祭での発言だが、これは掛け値なしの本音だった。

 大会当日。予選の後、ほかの通過者を見渡して当たりたくないメンバーを予想する。
遠藤、早咲、山田敦、渡辺俊、吉澤、竹内俊、小泉卓・・・。この7人か。予想した後くじ引き。出来上がったトーナメント表を見て唖然とする。
なんと全員逆山だ。これが久記理論なのか?16人のトーナメントであたりたくない7人が全員反対に行く確率はどのくらいになるのだろう?計算すると約800分の1。実に都合よくできている。
 1,2回戦、開原アマ名人、雲宮さん。準決勝の山内君。いずれも強豪だが不思議と落ちついて指せた。滅多にないチャンスを無駄にはすまい。そう心に決めていた。
決勝は渡辺俊雄さん。受けの強さはまさしく豪腕で、解説の先崎8段も舌を巻くほどだ。だが優勝したい気持ちではこちらも負けてはいまい。なにしろこの日の勝利を3年前から願っているのだから。

 将棋はというと、中盤で雑な手を指してしまい、途中は一歩も動けない局面になる。しかしプレッシャーに苦しんでいたのは渡辺さんも同様だったようで、奇跡的に逆転。いつしか勝勢になり渡辺氏の投了の声を聞く。最後は簡単な5手詰が見えずに念押しの詰めろをかけている。練習では将棋無双を解いていながらこの失態は滑稽だが、これが真剣勝負というものだろう。

 思えば以前に優勝したときも似たようなことをやり、機会があれば実力で勝ちたいとか宣言したような・・。今後も幸運に助けられながら指しつづけるのだろうか。尤もそうそう僥倖が続かないこともすぐに思い知らされることになるのだが。

(6)エピローグ
 2001年1月より、翔研に参加する。幸運を使い切った私はもう一度充電が必要と痛感したからだ。めぐり合わせよく勉強の場が与えられる現状は、幸いというよりない。銀河戦は自分でも拍子抜けするほどあっけなく負ける。激動の時代らしく次々に新星が誕生する。プロも奨励会も女流もアマも関係ない。強いものが勝つ。実力の時代、勉強の時代の幕開けだ。

 勝利から遠ざかって久しいが特にあせりはない。優勝できたことが都合の良すぎるだけのことだから。自分のポジションを見失う愚は避けたい。それでも再度の噴火が近いことも感じているし、その気持ちがなくなったらやる意味がないとも思う。人事を尽くして天命を待つ。今はそのときが来るのを静かに待つのみである。

 リレーエッセイの次走者は忘年会の影響のなさそうな松本響乃介君です。よろしく。



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